最近わたしは、数年前の自分が予想しない変化を感じている。
『casa そら』の活動が始まって2年ほど経つが、最初はそれがどう展開していくのか深く考える訳でもなく、何はさておき隣近所のみんなで集まってごはん食べる日があったらみんな仲良くなれるよね…的なことだったと記憶している。

すべてのはじまりは“みんな食堂”。

このアイディア、3年前に久々に訪れたヨーロッパの旅の途中、ひょんなことから友だち家族のごはん会によんでもらったことが大きかった。

この日わたしはデュッセルドルフ空港からミラノへ飛ぶ予定で、お昼前に空港に到着し、搭乗予定の飛行機が出発予定の掲示板に表示されていることを確認したあと、早めのランチを済ませ、チェックインカウンターに行くともうすでに行列ができていたのでわたしも並んで順番まち。

並びながら先にいるひとたちの様子を見ていて、なんとなく不審な気持ちがしていたのだけど…
と、言うのも、みんな自分の順番が終わると一律左手の方向に移動している気がして。

待つことしばし、順番が来たのでカウンターに行くと「パスポート!」って言われたので、パスポートを渡すと読み取り機に通して
「your flight has been cancelled!(このフライト、キャンセルになってるわよ)」
「えええー⁈掲示板にそんな情報でてないよー、どうすればいいの?」
「あっちにならんで、どうにかしてもらって」
と、追い払われてしまう。

この日、夕方にミラノに到着して、そこから速やかにパドバまで移動できたとしても到着は夜遅くなると言う、結構タイトなスケジュールで動いていたのに不測の事態。

まあ、旅はこんなもんだから、仕方ないと言えば仕方ないんだけど、ちょっとキツイ。

なんとかしてくれるはずのカウンターに続く列に並びながら、ケルンに長らく住んでいる姉の友だち(旅の途中、しばしば連絡を取っていたこともあり)に、困ったこの事態をなんとかできないかとメッセージを送ったり、これまたケルン在住のドイツ人の友だちに連絡してみたり、どっちみち今日はたどり着けないであろうパドバの宿にも連絡しなきゃって思ったと同時に、あの宿イタリア語しか通じないんじゃないか?って思ったりして、ひとりあたふた。

そんなことをしていると、姉の友だちのチャーさんから「ベルリンエアー破綻してるからね。今ちょうどニュースで乗り組み員全員が風邪引いてフライトキャンセルになったって…」と連絡が入る。

まじか… なかなかな事態に唖然としながらも、『はっ!宿に連絡…』どうしたもんかと考えていると前に並んでいるお兄ちゃんがイタリア語で電話しているのが目についた。

「すみません、今イタリアに向かってるんだけどこんなことになっちゃって、宿に連絡したいんだけど、イタリア語できなくて。英文メールをイタリア語に訳してもらえませんか?」と頼んでみたら「いいですよ!」と。ありがたい。

あっと言う間にイタリア語で打ち込んでくれ、携帯を渡してくれる。
「ありがとう」
30分ほど並んで順番が来た。
案外早くてラッキーと思いつつも、破綻している航空会社が一体どんなオプションを用意してくれると言うのか…

「こんにちは。どうすればいい?」
「どうしたい?」と、人のよさそうなおじさん。
「チケットは払い戻し可能なのかな?」
「ちょっと待ってね」 「うーむ、残念だけど払い戻しはできないみたいだね」 「このあとか、明日の別の便に振り替えはできるけど…」
「むむむ。明日の便だとして宿泊は用意してくれるの?」
「あるよ、ちょっと待って」と言って電話し始める。
1軒目はどうも無理みたいで、もうひとつ…
「ホテルはもう満室だね。シェラトンやどこかに泊まって宿泊代を会社に請求してもらってもいいけどね」
むむむ。
破綻してる会社にホテル代請求して返ってくるのか… むむむ。
「今日の飛行機だと?」
「乗り換えとかあるけど、夜の11時過ぎに着く便があるね」
「えっ!夜の11時によくわからない空港に着くとかやだよ」
この間にチャーさんにもしかして泊めてもらえたりしないか確認してみるけど、ちょっと難しいって。そらそうだ。
「あ!いいのがあるよ10時に着く。これいいんじゃない?」
この時にはもう頭がよくわからない状態になっていて、どうしよう…と考えていると、さっきまで優しかったおじさんが「後ろにみんな待ってるから、早く決めて!」と。
もういいや「じゃあ、それで」

実はこの飛行機も出発まであまり時間がなくて、おじさん大急ぎで発券してくれて「急いで!」とチケットを渡してくれた。

言われるままにチェックインカウンターに走る。
大急ぎでチェックインして、ゲートに走ろうとしてはたと『10時でも11時でもどっちでも嫌な時間じゃね?』と踏みとどまる。

と、前日に目にした記事(参勤交代の時代、道中の宿泊地の安全性を三点脈の乱れを測ることでつなみを逃れたという話)を思い浮かべ、考える間もなくわたしの手が喉の横二点と手首の一点の三点脈を測っていた。
すると、『トトトトトト…』ものすごい速度で一糸乱れず脈打つのを感じて思わず笑ってしまう。

「ふうー」と、大きくひと息ついたとき、わたしの方針は決まっていた。
ユーレイルパスを使って夜行電車でとことこ行くのも悪くない。
実はこれ、20年ほど前によく使っていたとても懐かしいルートである。

腹が決まると安心したわたしは、もう一度チャーさんに「夜行で行くことにしたよー!一緒にごはん出来たら嬉しいけど」最初に提案してくれていたオプションに乗る形で、デュッセルドルフから電車で30分ほどのケルンで落ち合うことになった。

移動をし始めたタイミングで友だちのハヨから「どこ?」とメッセージが入り「今、ケルンに向かってる」と返信しておいて、ケルン中央駅で何十年ぶりかのチャーさんと落ち合って、駅前のビール酒場で一杯していると、ハヨから「みんなでごはん食べるからくる?」とのお誘い。
仕事仲間とのごはんなのか、何なのかよくわからなかったけど「行く行く!」と8時頃に合流することになった。

ほろ酔いになったころ、ジモッティのチャーさんに引き連れられ、Uバーンに乗って、指定の場所に行ってみるとそこは彼らの住むマンションだった。

映像関係の仕事をしている人が多いケルンでこの建物内に同業種の家族たちが何組も住んでいるから、金曜日は複数の家族が集まってみんなでごはんを食べているんだよ…と。

偶然のトラブルはわたしをドキドキさせながらも、金曜日の夜のしあわせな“かぞくごはん会”にわたしを連れて行ってくれた訳で。
みんなでテーブルを囲んでドイツの子どもたちとポニョの歌をいっしょに歌っているなんて、夢見ているような幸せな体験だった。

帰国したわたし、さて何しようか?と考え始めていた。

運営を模索していたcasa そら(名前はまだない)の向かっていく方向性、ひとつにやさしい形で地域の人々を繋げる拠点になればいいなという思いがあった。

当時、北欧のヒュッゲ(Hygge)幸福的な生き方が話題になっていたこともあり、ヒュッゲなライフスタイルがドキュメントされている番組や書籍が出版されていた。
自然な形でみんながあつまってきて、同じアパートに住む住人たちがみんなで子育てしてる様子や楽しげにテーブルを囲んでいる様子が、ドイツでのあの“かぞくごはん会”と重なって感じていた。

テーマを考えてイベントを作るのはなかなか大変だけど、持ち寄りで集まって一緒にごはん食べるだけなら簡単に出来そう!と 仲間に相談してみたら「やろうやろう!」と言うことになり、トントンとことが進み、誰が来るのか、そもそも誰も来ないかもしれないけど…と思いつつも見切り発車。

初めてのみんな食堂には思いもよらずたくさんの人たちが集まり、子どもも大人もお年寄りも参加してくれての食事会はとても楽しい時間だったなぁ〜と思い出す。
食事を終えたあと、子どもたちが連なって遊んでいるのを見て、同じ釜のめしって言うけど、ごはんを一緒に食べるって、それだけでみんなが家族になるのだなぁ〜とつくづく感じた経験だった。

その後、毎回少しづつ調整がはいってはいるけど、今も基本は同じ。
みんなと一緒にごはんを食べたいと思うひとが集まって、何をするでなくごはんを食べて遊んだり、歌ったり、ピアノひいたり。

最初は子どもたちの声が元気過ぎてこれは大変かもって思っていたわたしも、今はそれがかえって居心地よく、その声が聞こえないこと、つまり子どもたちに会えないとちょっと寂しいと思ったりして。

都市部で現代生活を生きるには、いかに人と距離を保つか、そして必要以上に感情移入しないでいれるかということがうまくやる秘訣のようなところがあり、長年大人の生活をしてきたわたしはいつのまにか“あたたかい世界”に触れないようにしてきたところがあったのかもしれない。

ひとりで生きてひとりで旅をしていたのに、そしてそれでいいと思っていたのに、ひょんなことから“あたたかい世界”に紛れ込んでしまい、そしてその居心地の良さを思い出してしまった。
お腹の底にちょっと恥ずかしいような気持ちが今もあるけど、うちに来るみんなと笑い、喜ばしあっているうちにそんなことはどうでもよくなってしまうのだろうなと。

そしてこの春、みんな食堂が新たな一歩を踏みだすことになりました。
はてさてどうなることやら。